今から100年前、大正5年から6年にかけて信濃大町に出来たものが大きく3つあります。
一つ目は信濃大町駅。100年前に「東京と日本海とを連絡する」ことを目指し、信濃鉄道が鉄道路線と駅を開業しました。
これにより松本から1泊2日かかっていた道のりが、大幅に短縮しました(大町と鉄道の話はとても興味深く、いつか別建てで調べてみたいと思っています)。
二つ目は大町登山案内人組合です。こちらは山岳ガイドの集まりで、日本で初めての試みでした。今でも針ノ木岳慎太郎祭をはじめ、案内人の皆さんは北アルプスで活躍されています(こちらも大町を語るに重要なトピックスです)。
そして三つ目が今回のテーマ、信濃木崎夏期大学。100年前、ここ信濃大町に日本初の庶民に開かれた「大学」が誕生していたのです。県下に一つも大学がないこの時代、それは先駆的な事例でした。
“夏期”と聞くと大学受験のときの夏期講習を思い出すなぁ……。
1世紀前に始まった夏期大学とはどんな大学だったのだろう?
私も入学できるのかな?
イメージだけは膨らみますが、実態がよく分からない。その軌跡を辿りに早速、木崎湖に行ってきました。
信濃木崎夏期大学(以後、夏期大学)が行われる伝統ある会場「信濃公堂」は、木崎湖のほとりの林の中の小高い丘にひっそりと佇んでいました。
「大学坂」と呼ばれる少しきつめの坂を上り、木々に囲まれた広場に着いてびっくりしました。いつも通り過ぎるだけだった所に、こんな凛とした雰囲気の木造建築物があったなんて!
外観はまるで古刹のお堂のようで、私は東京の「湯島聖堂」を思い出しました。
ここで夏期大学の事務所の三ツ井仁さんと待ち合わせです。
「北安曇教育会の三ツ井です。
元教員(校長先生)です」
え!校長先生?
いきなり緊張するなぁ。
しかも教育会?
教育委員会のことかな?
伺ってみると、北安曇教育会とは長野県大北地区(小谷村、白馬村、大町市、池田町、松川村)の小中学校・特別支援学校の教職員が集まる一般社団法人のこと。各地方自治体にある教育委員会のことではありませんでした。
教育の調査研究や教員の職能向上を目指しており、夏期大学の運営もここが行っております。
「教育会は戦前には全国各地にあったけど、今は数えるくらいしか残ってないよ」と三ツ井先生。
「長野県は先生たちが自主的に学ぼうとする気風が強く残っている県だと思うね」。
明治期は全国平均2倍の就学率を誇る教育県だったそうで、だから教育会が残っているのかも。
なるほど、だから移住者の私には馴染みがなかったのですね。
そんな話をしながら信濃公堂内部を見せて頂きました。公堂の中に入るとひんやりとした空気に満ちています。
天井が高く180枚もの畳が作り出す広い空間がそこにありました。回廊のように周囲を巡らせた板張りの廊下とは、障子で仕切られています。障子を開けると広場から爽やかな風が吹き込んできました。
「江戸時代の寺子屋はこんな感じだったのでしょうかね? 実際、文机を並べて講義が行われる様子を見ると、タイムスリップした気になりますよ」とのこと。確かにここだけ時が止まっているように感じました。
そもそも夏期大学とはどのような「大学」なのか。明治初期に寺子屋が全国最多であった長野県では、大正期に入るとますます教育に対する熱は高まり、東京から講師を招き講演会を活発に行っていたそうです。自由な文化活動が盛んになった大正デモクラシーの風は、大町にも吹いていたのですね。
「夏期大学」を提唱したのは地元小学校の校長だった平林廣人(ひろんど)です。
平林が書いた“夏期大學建設の檄(げき)”に
「夏は信州の威厳である。他府県の炎暑随気満々たる時独り信州は冴えたる別天地である。
信州の夏期は之を利用せずしてあるべけんやである。」
とあります。現在にも通じる考えですね。夏休みに講演会を行えば、講師の先生も避暑を兼ねて赴きやすかったのでしょう。
夏期大学への機運が高まる中、その要望に応えたのが当時内務大臣・兼鉄道院総裁であった後藤新平でした。後藤新平といえば、都市計画や外交において活躍した明治・大正期の政治家です。「高等学術の地方普及化」のために、たまたま大正5年夏に長野に来ていました。
平林はこのチャンスを逃すまいと直談判すべく、新平の乗る松本行の列車に乗り込みます。二人は松本に着くまでの車中で教育の未来について熱く話し合い、後藤は資金面での援助を約束しました。
信濃鉄道や地元の人々の協力も得て、念願だったサマー・ユニバーシティが、いよいよ木崎湖で開かました。大正6年8月1日のことでした。
事業母体(信濃通俗大学会)には後藤新平、新渡戸稲造、柳田國男など、そうそうたるメンバーが名を連ねていて、後藤は講師として登壇もしています。参加者には大町登山者組合を設立したあの百瀬慎太郎もいたそうです。
今でいうと学術セミナーですが、当時夏期大学はとても画期的なこと。
老いも若きも集まった写真を見ると、大正期の人々の「学びたい気持ち」に触れたような気がしました。
こうして夏期大学はスタートした訳ですが、一度だけ全面休講寸前まで追い詰められたことがあります。それは太平洋戦争の開戦が迫りくる昭和16年、第25回目のことでした。
戦時体制を強めるための通告があり全面休講を決定せざるを得ない状況だったそうです。それでも「どんな事情があろうとも、夏期大学の歴史と伝統を絶やすには忍びないという強い意見が出されて」(引用:木崎夏期大学物語P106)期間を短縮し実施されました。翌年からは信濃公堂が銃剣術の訓練場や疎開者の避難先になりましたが、場所を替えてでも夏期大学は続けられました。
昭和21年は戦後最初の夏期大学の開講となり、奇しくも創立30周年の年でした。物資の不足する戦後の混乱期も続け、要請があれば長野県下の他の市町村での夏季講習の応援協力も行ったそうです。
その後、昭和25年には長野県教育委員会から長きに渡る取り組みが表彰されました。「もはや戦後ではない」といわれた昭和30年代には女性の参加率が上がり、さらに夏期大学は発展して行きました。
時代と共に学問と私たちとの距離感は少しずつ変わって行きましたが、信濃公堂は変わらず木崎湖に存在しています。
戦前、戦中、戦後の大町を見つめたこの建物。改修はされていますが躯体は大正6年から当時のままです。
今年も開講の時を待っています。これから始まる今年の開講、気になってきました。
今年は8月1日から9日の9日間行われます。
講師陣は日本を代表する科学者の一人、カブリ数物連携宇宙研究機構の機構長村山斉先生、ニートという定義を広め社会問題に取り組む経済学者玄田有史先生、国際協力機構(JICA)・前理事長で国際政治学者の田中明彦先生などなど、著名な先生が9名、信濃大町にいらっしゃいます。
「これだけの先生をお呼びできるのは、本当に光栄なこと」と三ツ井先生。学のない私は講師陣の凄さが理解出来ていない気もしますが、講義を拝聴すればきっとその面白さが分かるのでしょう。
期間中の運営は大北地区の教員のボランティアで行われています。なんと講師の先生方の昼食を作るのも、地元の学校の教員なんだとか。受付からシェフまで何でもこなすんですね!
「学ぶ場を繋いできた精神をこれからも大事にして、私たちも後世に引き継いでいきたい」と仰る三ツ井先生。頭が下がります。
今は生涯学習の役割も果たす夏期大学。参加者は毎年約1800人で、地域の学校の先生や50代以上の男性が多く「若い人、できれば高校生や大学生にも来てほしい」とのこと。
クーラーはない。真新しい機材もない。でもそこには信濃大町と時代が必要とする学問を、100年見守ってきたお堂があります。湖面をわたる風を感じ、ひぐらしの声をバックミュージックに、たまには高尚な時間を過ごしたいものです。
100年間で延べ1013人の講師を迎え、9万3千人以上の受講生が学んだ夏期大学。
今年はその伝統ある講義を私も受けてみようと思います。
<第100回信濃木崎夏期大学>
開催期間/2016年8月1日(月)~9日(火)
開催時間/9:10~15:10
開催場所/木崎湖畔 信濃公堂
受講料 /1日500円(学生200円)
(大北地域在住、出身者は無料)
受講資格/誰でも受講可能
申込 /事前に予約不要
当日会場入り口で受付
<信濃木崎夏期大学事務所>
一般社団法人 北安曇教育会
住所/長野県大町市大町1058-2(大北福祉会館内)
電話/0261・22・0440
FAX /0261・22・7501
http://www.kizakikakidai.sakura.ne.jp/
<参考にした本>
『信濃木崎夏期大学物語』
北安曇教育会/信濃教育会出版部
『信濃木崎夏期大学百年誌』
北安曇教育会/編纂委員会
『信濃大町の歴史と風土・第13回信濃大町学問ことはじめ』/育てる会会報「育てる」2016.6月号より